仁和寺に、慈尊院の大藏卿隆曉法印といふ人、かくしつゝ、かずしらず死ぬることをかなしみて、ひじりをあまたかたらひつゝ、その死首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁をむすばしむるわざをなむせられける。その人數を知らむとて、四五兩月がほどかぞへたりければ、京の中、一條より南、九條より北、京極より西、朱雀より東、道のほとりにある頭、すべて四萬二千三百あまりなむありける
新入青空文库本鸭长明《方丈记》(底本《國文大觀 日記草子部》明文社 1906,流布本系),养和饥馑条逐字可核,脚注四项全中:「仁和寺に、慈尊院の大藏卿隆曉法印といふ人……その死首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁をむすばしむるわざをなむせられける。その人數を知らむとて、四五兩月がほどかぞへたりければ、京の中、一條より南、九條より北、京極より西、朱雀より東、道のほとりにある頭、すべて四萬二千三百あまりなむありける。」——隆曉法印(正文作隆晓,简繁之别)、书阿字、四五两月(即两个月)、四万二千三百余,无一处出入。 一处可再收紧:原文把这个数字限在「一條以南、九條以北、京極以西、朱雀以東」的「道のほとりにある頭」,长明并明言河原、白河、西京及诸边地不在此数内,「際限もあるべからず」。
核查全文
正文第 7 行作「两个月点数京中遗骸四万二千三百余」,「京中」大体不误,但严格说是「京中路旁之首」,不含河原。 又一处:第 7 行「鸭长明《方丈记》记贺茂河原尸骸相枕」——原文只作「いはむや河原などには、馬車の行きちがふ道だにもなし」,未标「賀茂」二字(京中河原自指鴨川河原,属通行的补足),亦未直说尸骸相枕,而是说河原连车马通行之路都没有;连上文「ついひぢのつら、路頭に飢ゑ死ぬるたぐひは數もしらず。取り捨つるわざもなければ、くさき香世界にみちみちて」看,「尸骸相枕」是允当的撮述,但若要逐字系于原文,宜改作「河原车马无路可通」。以上两处皆属措辞,不改判语。 旁得:同条另记「古寺に至りて佛をぬすみ、堂の物の具をやぶりとりて」——饥民劈佛像堂具为薪出售,长明叹「濁惡の世にしも生れあひて」。第三卷第十三篇讲末法由情绪变日历、乱世线压低此生自证之可行,此为一条极硬的当世实录。
养和饥馑条四项逐字相合:仁和寺隆曉(简作隆晓)法印、額に阿字を書く、四五兩月(四五两月即两个月)、四萬二千三百あまり。所计范围原文限定得比正文更细:一條以南、九條以北、京極以西、朱雀以東的「道のほとりにある頭」,长明并自注河原、白河、西京及诸边地不在其内,「際限もあるべからず」。底本为流布本系(明治《國文大觀》),非大福光寺本。




